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言語学的に矛盾しない人工言語の作り方

●本稿の目的と読者対象

本稿では言語学的に矛盾しない――あるいは控えめにいっても不自然でない――人工言語の作り方について論ずる。

この作り方が必要になるのはアプリオリの人工言語のみである。アポステリオリには必要ない。借入元の言語が自然言語だからである。例えばエスペラントに本稿は必要ない。
アプリオリの中にはリアリティを追求しない言語と、リアリティを追求する言語がある。このうち前者にこの理論は必要ない。例えばクリンゴン語に本稿は必要ない。
本稿を必要とするのは、現実と見紛うような架空の世界で使われる「まるで本当に存在するかのように感じられる自然言語」を作りたい研究者だけである。
以下はこのタイプの人工言語制作についての説明であるため、人工言語の作り方で述べた人工言語制作の手順とは必ずしも一致しないという点に注意したい。

●人工言語に必要なのは肩書きではなく努力と書籍代

さて貴方が上記の目的を持ったものと仮定して、まず最低限必要なのは言語学の知識である。最低限大学の学部レベル、できれば大学院レベルが望ましい。
言語学はたいてい文学部の国文学科とか英文学科といった学科で扱われる。このままだと文学部に所属することが必要に思えるが、実はその必要はない。言語学は工学などと異なり、高価な実験機材を必要としないからである。音声認識など一部の分野は機材が高価だが、人工言語を作るのに必要な知識を得るには書籍代を捻出できれば十分である。
従って必要なのは自己の努力と書籍代のみである。すなわち、言語学は独学でどうにかなる。更に言えば、大学の文学部で言語学を専攻する必要もない。筆者の大学院時代の専攻は言語学だったが、その筆者があえて不必要と断ずる。ではそれはなぜか。それは言語学が人工言語を範疇としないためである。この理由については後述する。

筆者は高校時代に言語学を独学で学び、言語学では人工言語を扱わないということを知った。それでもネットも普及していなかった当時は大学で言語学をやるのが最も人工言語に近付く方法であった。それで仕方無しに大学で言語学を履修したが、学部の授業は言語学を知らない人間のためのものなので、既に高校で独学していた自分に得るものはなく、学部時代から大学院の授業に混じっていた。先輩方のご厚意で、言語学関連の同好会にも所属させていただいた。だがそれでも人工言語をやることは許されなかった。
だから大学では少しでも人工言語に役立つ分野を研究をしていた。人工言語をやっていることについては変人扱いというか、どちらかというと嘲笑すらされていたように思う。なお、大学の授業はアルカに関しては無利益だったが、それ以外のことは大変勉強になった。
人工言語という面で見れば、大学に所属する必要はないというのが自分の経験から言えることである。だからこそ、貴方が言語学の素人であろうが、文学部卒でなかろうが、理系であろうが、高卒であろうが、人工言語を作るという目的においては肩書きなど不要で、自助努力と書籍代さえあればどうにかなると言える。
ちなみに、大学自体は非常に校風が自分に合っていて好きだった。いい思い出もたくさんあり、同級生も先輩方も先生方も温かい方々だった。

書籍代を何度も強調したのは、専門書には平気で数万円もするものがあるからである。筆者は親が借金王だったため、大学院の費用等はむろんバイト代で捻出したし、その上で専門書を買わねばならなかったから、大変苦労した。バイトをして本代を稼いでの繰り返しだったので、取得単位も最低限度ギリギリで卒業したし、周りがするような合コンも一度もしたことがない。彼女とデートをしてもジュンク堂に入り浸るだけとか、たこ焼きをひとり1パック買えずに半分こするなどといった惨めな思いをさせてしまっていた。

塾講師だけでは足りず、夏休みには住み込みで農業をして本代を稼いだこともあった。片方の指2本で20kgの箱を持ち上げてトラックに積んでいく作業(つまり一回あたり両手で40kg)や、40℃を越える炎天下での水なしの作業などが印象深い。全ての農家がそうではないと思うが、たまたま行ったところがバイトを冷遇するところだったのが不運であった。その家族は水を飲みながら作業をするが、こちらには炎天下でも水を渡さない。玄関も使わせず、窓から出入りさせる。トイレも使用させない。夕飯は米と茄子。その家族の親戚が車で事故を起こして筆者が頭から流血して顔面が文字通り血だらけになっても気付かない振りをするなどなど。ちなみにその血は夕立で天を仰いで落とした。そんな環境でも言語学やアルカのことを常に頭の中で考えていた。
思えば大学時代に別件で倒れて救急車で搬送されたときも、微かに見える救急車の機材に書いてあるドイツ語の語源を考えたりする人間だったので、どのような状態であっても言語学とアルカからは頭が離れなかったのだろう。金さえあればこんな苦労はしないで済んだものをと思った。

このように、筆者は本代にはずいぶん苦労させられたから、どうしても意識してしまう。社会人になって金の心配がなくなってからは楽になったのが嬉しかった。今や投機の利鞘を大震災の復興支援投資に当てるなどといった活動もできるほどになった。
だが経済的な安定と引き換えに、今度はそれまでの無理が祟って体が悲鳴を上げてきたのが残念である。埼玉から京都までロードレーサーですらない自転車で行くだけの体力はあっても、人工言語の作業を長年続けるのは体に堪えた。
話を戻そう。いずれにせよ、もし貴方が学生でなく社会人であれば、書籍代は気にする必要はない。必要なのは努力のみである。

●最低限守るのは言語の普遍性

最低限守るべきことは言語類型論における普遍性である。言語には次のような絶対的普遍性というものがある。

・文字を持たない言語はあるが、音声を持たない言語はない(手話は特定の団体によって人工的に作られたものなのでここには含めない。また、滅んだ言語で文献にしか残っていないものでも、使われていた当時は音声を使用していた)
・あらゆる言語は二重分節を持つ
・あらゆる言語は名詞と動詞を持つ
・摩擦音が1つ以上存在すれば、そこには必ず[s]がある
・ある言語の語順がVSOであれば、形容詞は名詞の後に来る

これらは問答無用で貴方の言語に取り入れなければならない。普遍性は我々にとって制約ではなく非常に便利なものである。たいていの作者はリアルに作り込もうと思ったときに、言語学の理論によすがを求める。このとき普遍性は大変便利に感じられる。

●言語学概説を学習したら、まずは言語類型論を

しかし残念ながら、言語学が発見した普遍性は非常に少ない。ほとんどが強い傾向か弱い傾向でしかない。それでもそういった傾向は優先的に取り入れたほうがリアリティが出る。
例えば世界の語順は松本(2006)によるとSOVが最も多く、OSVが最も少ない。SOVとSVOだけで実に84.3%ものシェアを占める。リアリティを追求するならば、貴方はSOVかSVOを選択するのが最も無難である。OSVにしたからといってリアルでないわけではない。しかしSOVやSVOのほうが「圧倒的に有り得やすい」のだから、それは「いかにも現実味を帯びて感じられる」ということに繋がり、その分だけリアルに感じられる。ただし繰り返すが、別にOSVにしようがそれは貴方の選択だ。

こういった傾向は言語類型論の分野で知ることができる。まず言語学全般を学んだ後に学習すべきは言語類型論である。貴方はいずれ語順だけでなく、膠着語や屈折語といった形態や、対格言語か能格言語といった設定についても決めねばならない。そのときに言語類型論は必要となる。
さらに進んでいけば、ある言語が100%膠着語に分類されるようなことはまず起こらないなどといった壁にもぶつかり、言語の分類が容易でないこと、換言すれば言語の制作も容易でないことを知ることになる。

●次に必要なのは音声学

音声学と音韻論は優先的に学ぶべきである。言語は音でできている。貴方の言語がどの音韻を持つのか定める必要がある。このとき、IPA的に見て絶対に発音不可能な音声を選択してはならない。
たまに火星語を話せるという馬鹿がテレビに出てくるが、人間の発声器官は非常にデリケートで、人間に非常に近い構造の猿ですら人間の言語を模倣できない(直立歩行ができないというだけのことで)。まったく違う環境の星で人間と同じ形態の生物は生きていけないので、火星人なり金星人なりがいるとするなら、それらは人間とはかなり異なった形態を持つ。すなわち仮に彼らに発声器官があったとしても、相当人間のものとは異なっている。従って逆に人間が彼らの音声を真似することはできない。ゆえにその詐欺師が火星語を喋れるということは調音音声学的に見てありえない。
こういうことは常識でも分かることだが、IPAの繊細さに触れるとなお分かることである。貴方はIPAが提示する限られたテーブルの中から音声を選び、自分の言語が持つ音素を選んでいかねばならない。

先に類型論をやらせたのには理由がある。例えば[z]があるのに[s]がない言語は存在しない。これは類型論が明らかにしている。ところがこういったことを知らないと、言語学的にありえない音素の選び方をする恐れがある。
音素を選ぶ際は自分の好みや慣れだけで選んではならない。印欧語やシナチベット語族など、様々な語族の言語を調査し、共時的だけでなく通時的にも音素の変遷を調査した上で、自分の言語の音素を定める必要がある。
筆者は大学時代に図書館に入り浸って『言語学大辞典』の一巻から五巻の補遺まで通読し、別巻の世界文字辞典にも目を通した。また、術語編については使用頻度が高いとして購入した。それくらい入念な調査が必要である。
ちなみに、筆者が地球の文字で最も洗練されていると思うのは、学習効率や画数の問題はあれど漢字である。

●文法は二の次。考察は広域範囲で

貴方は恐らくとっとと文法づくりという楽しい作業をしたいのかもしれない。しかしそれはだいぶ後の話である。類型論をよく学んだ後に文法を定めると、いかに類型論を知らなかった頃に自分が描いていた青写真が荒唐無稽だったかが分かるはずである。
文法は変化するものであり、ひとつの文法的要素はほかの文法的要素に影響を与える。例えば語順がVSOであれば、形容詞は常に名詞に後置される。間違っても貴方の勝手な好みで無茶苦茶に作ってはならない。類型論を踏まえた上で、さらに周辺民族の言語からの影響や歴史的変化も考慮して定める必要がある。
例えば日本語の文法は日本語だけのものではない。環太平洋の諸語と合わせて広域で考察されるべきものである。ということは、貴方が作りたい国の言語もその周辺地域と合わせて広域で考察する必要がある。このあたりの事情は松本(2007)が参考になるだろう。
気が逸って文法を作りたい気持ちは分かる。そして言語を作ろうと思えば初期の段階で人称代名詞を組むことになるだろう。だがこの人称代名詞のような単純なものでさえ、後述するスル言語かナル言語かによって異なるシステムを持つため、安易に決めることはできない。例えば日本語のようなナル言語においては一人称代名詞が一般に豊富で、英語のようなスル言語においては一般に豊富でない。人称代名詞ひとつ組むにもほかの様々な文法要素と合わせて考える必要がある。よって、やはり組む前に勉強するという原則が活きてくる。
なお、人称代名詞については松本(2010)が極めて詳しい。参考文献に挙げる数々の良著もそうだが、筆者がアルカを作成する前に出版してほしかったものである。良著が出揃っていれば、アルカ史が経た紆余曲折もいくらか短く済んだはずである。

ときに貴方は恐らく日本人だろうから、対格言語に慣れているはずだ。日本語も英語も対格言語なので、貴方の言語は自然と対格言語になりやすいだろう。しかし世界には能格言語というものもある。つまり能格言語という選択肢もあるわけだが、これも適当に好みや「面白いから」で決めてはならない。
さらに言えば、能格言語と対格言語は完全に分離した存在ではない。時代を経て能格言語から対格言語へ変わることすらある。例えば英語は対格言語であるが、近藤(2006)によればその元となった印欧語は能格言語であったというのが言語学者の間で広く支持されているという。
また、言語が対格か能格かというのはほかの文法要素にも影響を与える。例えば近藤(2006)は能格の起源を具格に求めている。能格言語という特徴が文法的には一見関係ない具格と関連しているというのは興味深いことである。というのも、このことは能格言語か対格言語かという類型を選択する際にほかの文法要素も合わせて考えなければならないことを意味するからである。
なお、近藤は能格の起源を具格に求めているが、一般に言語学者の間では属格起源説が広く支持されている。

●言語らしさ

類型論・音声学・音韻論・文法。これらを検討すると言語の骨子が出来上がってくる。当然それらを組む過程で基本語や機能語の類は創られていくだろう。その際にはまた別途形態論を学ぶ必要がある。
その作業が終わると簡単なことが表現できる程度になってくる。この時点で気付くのは、同じ現象を表現するのに複数の言い方が存在するということである。例えば「彼は私にリンゴを与えた」という文と「彼からリンゴをもらった」ないし「彼がリンゴをくれた」という文は意味的には等しい。しかし最初の文はいかにも翻訳調であって自然には感じられない。なんとなく日本語らしくないのである。このように、同じ内容を複数の言い方で表現できるようになって初めて感じられるのが、「言語らしさ」の存在である。

各言語には「言語らしさ」というものがある。例えば日本語の「雨が降る」という文は自然だが、「雨る」は非文である。逆に英語の"It rains"は自然であるが、"Rain falls"は典型的な表現ではない。
「雨が降る」は日本語らしいが、「雨る」は日本語らしくない。反対に"It rains"は英語らしいが、"Rain falls"はそれほど英語らしくない。日本語は雨を名詞として使うのが自然で、英語はrainを動詞として使うのが自然である。このように、各言語には「その言語らしさ」というものが存在する。

日本語の表現に近い言語は次の通りである。
韓国語では비가내리다(雨が降りる)ないし비가오다(雨が来る)と表現し、日本語と同じ表現方法である。
中国語では「下雨了(雨が降ってきた)」のように表現され、雨は動詞としては使われない。ただし日韓と異なり、雨が動詞の後ろに回り込んでいる点で文法的に異なる。
フィンランド語ではSataa vettä(雨が降る)、Sataa lunta(雪が降る)のように表現する。sataaは元々は「降る(fall)」を意味する動詞で、本来これ自体に「雨」という意味はない。vettäはvesi(水)の単数分格形である。中国語と同じく動詞が先行している。

日本語などは動詞の部分を変化させることで、自然現象の起こり方をより具体的に示すことができる。例えば霜ならば「降り」、霧ならば「出る」というように。中国語も雨なら下だが、風なら刮が使える。
しかし松瀬(2007)によるとネワール語ではこれらをすべてWAYE(くる)で表現できる。このように、一見日本語と似たタイプの言語の中にも異なった特徴を持つものがある。

一方、英語の表現に近い言語は次の通りである。
フランス語ではIl pleutで「雨が降る」。同じくドイツ語ではEs regnet。これらは英語同様、主語の省略を容認しない言語である。そのため、形式主語を必要とする。
同じ印欧語でも、主語を省略できる言語がある。例えばイタリア語ではpiove、スペイン語ではllueve、ポルトガル語ではchoveとなる。

ちなみに、両方の表現方法を取る言語もある。英語で「雨が急に降りだした」という場合はrainを動詞としては使わず、"Suddenly rain began to fall"のようにいう。アルカでは"eskat im fis"(今日は雨が降った)のように雨を動詞として使う傾向が強い一方、"esk lunat im fis"のように「雨が来た」と表現することもできる。
ただ、どの言語も雨を名詞として使いたがるか動詞として使いたがるかといった好みがある。もしこの好みを違えた場合、その文は不自然かあるいは非文になる。
多少不自然なくらいなら意図は通じるかもしれない。例えば「雨る」なら人によっては理解されるかもしれない。だが依然として「雨る」は自然ではない。すなわち、各言語にはその言語らしく感じさせる表現方法がある。それは「雨が降る」と「雨る」の差に現れている。
この「言語らしさ」については国内外の言語学者により様々な術語を使って言及されており、言語類型論や対照言語学などの諸分野で論じられている。国内では特に池上(1981)に端を発する研究が牽引車となっている。

なお、ここで述べる言語らしさというのは例えば池上(2006)の「外国語と意識的に取り組んだことのある人、あるいは、母語でもそれを客体化して改めて捉え直してみたことのある人ならば、それぞれの言語にはその言語化――つまり、表現の構成の仕方――に関して、何か好みの傾向といったものがあるという経験をするのではないであろうか」で表現されるような性質のものである。この表現からも分かるとおり、それはたいてい普遍的な法則という類のものより、主に好みや傾向といった類のものである。

●言語らしさを作る傾向

國廣(1982)、中村(2004)、池上(1981, 2007)など一連の研究によれば、言語にはある特徴があれば、それとは異なる特定の特徴を有する傾向があることが分かっている。
池上(1981)において日本語は「なる」型言語(以下ナル言語とする)に分類され、英語は「する」型言語(以下スル言語とする)に分類される。
他方、日本語はコト言語に分類でき、英語はモノ言語に分類できる。ここでコト・モノの好例を挙げよう。(2a)に見られるように、日本語はコト言語に分類することができる。(2b)はいささか不自然である。

(1) Do you like me?
(2a) 私のことが好きですか。
(2b) ?私を好きですか。

面白いことに、一般にスル言語はモノ言語であり、ナル言語はコト言語だという傾向がある。同じくスル言語はhave言語であり、ナル言語はbe言語だという傾向がある。これはつまりある言語がスル言語であれば、その言語はモノ言語かつhave言語である傾向が強いということを意味する。日英で検証すると以下のようになる。

(3) I have a sister.
(4) 私には妹がある(いる)。

このように、ある特徴が他の特徴の存在を示唆するという現象が言語には見られる。ただしこれはあくまで傾向であって、必ずしも普遍性のあるものではない。しかし諸特徴が互いに傾向を持ってまとまった群を成すという現象はどの言語にも見られ、この群が各言語の言語らしさを形成していると考えられる。

●人工言語の言語らしさ

自然言語は言語らしさを有するが、人工言語はどうだろうか。
アポステリオリの場合、借用した言語の言語らしさをまるまる使用することで言語らしさを獲得できる。
しかしアプリオリの場合はゼロから言語を構築しなければならないため、制作者に知識がないとスル言語なのにbe言語というような、言語学的に見てあまり一般的でないような言語を形成する恐れがある。
言語制作者が言語学の知識を持った上であえて思考実験として不自然な言語らしさを与える分には問題ない。しかし異世界で特定の民族に使われる言語としてそのアプリオリ言語を制作した場合、不自然な言語らしさを持ったその言語は言語学的に見て不自然といえる。創作の観点でいえば、その言語は考察が不十分で稚拙であるといえる。
ただし、もちろん地球の言語にもスル言語なのに本来スル言語が持ちにくい特徴を持ったものがある。あくまで傾向でしかないことに留意したい。

●人工言語が言語学の範疇でない理由

人工言語が言語学の一分野として相手にされない主な理由は2つある。
1つ目は通時的なもので、19世紀にパリ言語学会が「言語起源論と普遍言語に関する論文は受理しない」と定めたためである。暗黙のうちに普遍言語だけでなく人工言語全般が含まれたまま現在に至っている。
2つ目は共時的なもので、言語学が「現存するかあるいは過去に存在した民族が生活の中で培ってきた言語について研究するもの」だからである。従って人工言語は本来的に範疇に含まれない。
しかし本音を言えば理由はこれだけではない。ざっくばらんに言ってしまうと、人工言語が「後出しジャンケン」できる上、ほとんどの人工言語は言語学的知識のない人間が作った稚拙なものだからである。
そして何より、そもそも言語学者は一般的に人工言語に興味がなく、言語学の潮流どころか範疇ですらない人工言語を研究したところで成果にならないためである。これは理論云々以前の問題で、単なる現実である。

「後出しジャンケン」について説明せねばなるまい。
例えば上で述べた「スル言語はhave言語になりやすい」といった研究成果は、自然言語をいくつも検証した上で帰納した傾向である。
また松本(2006)によると、世界の言語の語順はSOVが最も多く、OSVが最も少ない。これも自然言語から帰納して得られた傾向である。言うまでもなく、これらの研究成果は言語学的に意義のあるものである。
ところが人工言語はこれらの成果をいとも簡単に覆すことができる。まるで後出しジャンケンのように好きに帰納の結果を変えられる。というのも、いくらでもOSVの言語を増産することができるためである。
人工言語を自然言語の言語学に混ぜてしまうと、言語学がこれまでに発見してきた傾向を尽く覆される恐れがある。そのこともあって、言語学が人工言語を対象に含めるのは好ましくない。
仮に人工言語を言語学の範疇に含めるとするならば、言語学を踏まえた上で作られた精巧なアプリオリ言語や、完全なるアポステリオリ言語に限定せざるをえない。更に言えば、これらの言語ですら自然言語のデータとは切り離して考察されざるをえないだろう。

●言語学的に矛盾しない人工言語

これまでに言語学が帰納してきたものは、その多くが普遍的な法則ではなく傾向である。しかしそれは十分有用なもので、人工言語を作る際には考慮すべきものである。
言語学的に矛盾しない――あるいは控えめにいっても不自然でない――人工言語の作り方は、こうした考察を踏まえてこそ成しうるものである。

●異言語の影響

上で述べたことと逆説的になるが、真の意味で言語学的に矛盾しないあるいは不自然でない人工言語を創る場合、通時的な論考も交えねばならない。例えばスル言語だからといってスル言語の全ての特徴を安易に持たせてはならない。
日本語はナル言語であり、本来スル言語よりは無生物主語を使わない傾向にある。ところが金田一(1988)によると「「戸は開かれたり」「賽は投げられた」のような、無生物を主語とする受動態などが洋語の影響で多く用いられるようになった」とある。
このように、異言語の影響を受けてナル言語でもスル言語の特徴を持つあるいは容認することがある。むろん逆も然りである。従って人工言語制作においても、歴史的背景を踏まえて通時的に考察する必要がある。上述までの共時的な考察だけでは不十分である。

では歴史的背景を踏まえて人工言語を作るとは具体的にどういうことか。
アルカが使われるアルバザード国は何千年という歴史があり、異民族の脅威に晒されてきた。国内には多くの民族と言語が存在し、それは常にアルカに影響を与えてきた。(注:アルカの前身はアルバレンといい、その前身はさらにリュディア語というが、術語をいたずらに増やさぬよう、本稿ではアルカで統一する)
アルカはもともとスル言語であったが、国内に流入したナル言語を使用する民族と長い間共存したため、徐々にナル言語の性質を帯びていくようになった。現在でも(5a)に見られるように、本質的にはスル言語の性質が強い。

(5a) an til amel(私は妹を持っている→私には妹がある)
(5b) *amel xa an(妹は私がいる場所にいる):非文でないが、文意が異なる。

他にも一般にスル言語は擬態語が少ない傾向にあるが、これはアルカも同様である。
また、一般にスル言語は間接受身を持たないが、これについてもアルカは同様である。
このように、基本的にアルカはスル言語の性質を強く持っている。

その一方、アルカにはナル言語の特徴も混じっている。以下に例を挙げる。
スル言語の特徴は客観的であり、ナル言語の特徴は主観的である。これと関連して一人称代名詞はナル言語において多様であり、スル言語において一定であるという傾向がある。実際に日本語には「俺」や「私」や「僕」といった一人称が豊富にあるが、英語はI、フランス語はjeのみである。
アルカの場合、この点はナル言語の特徴を持っており、一人称代名詞は多様であり、an, non, men, yuna, noelなど多数ある。古くはアルカもスル言語に相応しく一人称はdelないしanのみであった。せいぜい女性用にnonが加わる程度であった。人称代名詞が多様化したのはナル言語を持った異民族の流入以降である。

また、一般的にスル言語において動詞の焦点は結果にあり、ナル言語において動詞の焦点は行為全体にある。
例えば「説得する」の場合、日本語では「説得したが駄目だった」といえる。しかし英語のpersuadeは「説得した上で説き伏せた」というニュアンスを持ち、結果に焦点がある。それゆえ"persuade but failed"のような句は不自然である。"tried to persuade but failed"にすると自然な句となる。
アルカで「説得する」はsosoというが、これは説き伏せることまでは含意しない。このことからアルカは動詞の焦点が行為全体に置かれることが分かる。すなわちここにもナル言語的性質を見出すことができる。

このように、アルカは共時的な言語学的傾向のみならず、通時的な事情も考察した上で創られている。
アプリオリ言語で言語学的に矛盾しない――あるいは控えめにいっても不自然でない――言語を創るには、共時的だけでなく通時的な論考も交えなければならない。
スル言語とナル言語のような特徴がもたらす傾向は人工言語造りにおいて極めて有用である。だがそれを利用する際は、必ず通時的にも考察し、歴史的変化や異民族との関わりについて考察する必要がある。

●2つの歴史

アルカは人工世界カルディアで使われる一方、作者らによって現実でも使われる。従ってアルカ史は架空と現実の2種がある。本稿では主に前者について述べてきた。補足として後者について少し触れておく。
もともとアルカは様々な自然言語の話者が集まってできた言語であるため、スル言語の特徴もナル言語の特徴も持っていた。ただ年代ごとにスルとナルの力関係は変化していた。おしなべて90年代前半はナル的で、後半はスル的であったと思われる。00年代前半までスル的傾向が強く、後半になってナル的要素が増したように思われる。結果として人工世界カルディアにおけるアルカ同様、両方の側面を持った言語になっている。

●姉妹記事

アルカの認知言語学的考察

●参考文献

池上嘉彦(1981)『「する」と「なる」の言語学―言語と文化のタイポロジーへの試論』大修館書店
――(2006)「日本語は<悪魔の言語>か?―個別言語の類型論の可能性」
――(2007)『日本語と日本語論』筑摩書房
金田一春彦(1988)『日本語〈下〉』岩波新書
國廣哲彌(1982)『日英語比較講座第4巻』大修館書店
近藤健二(2006)『言語類型の起源と系譜』松柏社
中村芳久(2004)『認知文法論〈2〉』大修館書店
松瀬育子(2007)「ネワール語におけるWAYE(くる)のスキーマと意味拡張」神戸言語学論叢 Kobe papers in linguistics, 5:131-141
松本克己(2006)『世界言語への視座』三省堂
――(2007)『世界言語のなかの日本語』三省堂
――(2010)『世界言語の人称代名詞とその系譜』三省堂

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